映像の吟遊詩人Ken Jacobs:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、32日目。


Day 32: Jonas Mekas

Thursday February. 1st, 2007 8 min. 10 sec.

Ken Jacobs
the master film
performer/minstrel
reveals his nervous
technologies.
(Filmed in London)

ケン・ジェイコブズ
実験映画の巨匠
名人にして吟遊詩人
彼はその非常に神経質な
技術を
明かす。
(撮影は2000年11月ロンドン)

2000年11月ロンドンでの上映会。ケン・ジェイコブズの「瞬きする映画」の舞台裏。上映といっても、毎回が正に実験的パフォーマンスのような上映会である。メカスが「名人performer」と称する所以である。上映に必要な機材を載せたワゴン車でジェイコブズは中世の吟遊詩人(minstrel)さながら移動する。映写機は映写室に常備されたものを使うのではなく、自前の映写機が客席最後部に置いたテーブルの上に電動モータなどと一緒にセッティングされる。細かいものがテープで留められたりしている。目立つ仕掛けは映写機のレンズの前に取り付けられる大きな羽根のような回転板だが、そしてそれが「瞬き」を実現するのだが、メカスのカメラはジェイコブズや若い助手たちの細かい神経を使う作業に愛情と関心の籠った眼を注ぐ。

ジェイコブズの映画はわれわれに視覚的体験の無意識の一部を顕在化させるものだが、それは映像というものの真実の一面とわれわれの視覚の実在的側面に気づかせてくれる。メカスが書いているように、本当にジェイコブズは映像の職人の親方(master)のようだ。

YouTubeでジェイコブズの「瞬きする映画」の一部を見ることができる。

  • YouTube - Ken Jacobs - Celestial Subway Lines / Salvaging Noise Ch.3

http://www.youtube.com/watch?v=Lgcv5iPmG84

  • YouTube - Ken Jacobs - Celestial Subway Lines / Salvaging Noise Ch.5

http://www.youtube.com/watch?v=tK9MnO-x6R8

ケン・ジェイコブズの充実したインタビュー映像はこちらで。

  • Conversations with History: Institute of International Studies, UC Berkeley

http://globetrotter.berkeley.edu/people/Jacobs/jacobs-con0.html

ケン・ジェイコブズに関するまとまった日本語情報はほとんどないが、粉川哲夫さんが大分以前にジョナス・メカスの映画『LOST LOST LOST』との関係でちょっと触れている。そしてその論考「都市の難民」(83/12/ 8『月刊イメージフォーラム』に初出)が「映画日記」ともいうべきメカスの「映画」の本質に迫っていてなかなか面白い。

『記憶の技法』の著者フランシス・A・イエイツの「都市と記憶術」(玉泉八州男訳、「現代思想」一九八三年七月号)によると、印刷メディアが浸透する以前には都市が記憶体系の役割を果たしており、古代の人々は、街路の間隔や建物の細部に自分の知識や記憶をたくわえるのをつねとした。都市とは、ペンをもった手先でだけでなく、そこを遊歩することのなかでからだ全体ですべてのものを〈書きこむ〉ことのできる〈ページ〉であり、書物よりもはるかに長い歴史をもった記憶術の場だったのである。このような都市は、ほとんど失われてしまったし、とりわけ東京という都市での生活は、都市のそのような機能を全く不可能にする。東京という都市には、遊歩者が何かを〈書きこむ〉まえにすでに何かが〈書かれ〉ており、そこを遊歩する者はつねに記憶を喪失していなければならないのである。その意味で、東京に住む者は、都市の記憶から排除された〈難民〉であらざるをえない。
『LOST LOST LOST』と同じようなやり方で撮られ、まとめられた『リトアニアへの旅の記憶』を見たケン・ジェイコブズは、メカスに、この映画が何よりもある種の難民体験を描いている点で興味ぶかく、自分が子供時代を送ったブルックリンのウィリアムズバークがもはやなくなっており、その意味で自分も似たような難民体験をしているのだと語ったという。しかし、難民体験とは、決して失われた記憶の再生ではない。それは、むしろ、失われてしまったということの痛烈な再確認である。
 メカスは、前掲の文章のなかで、「自分の映画日記を見直していくと、そこにはニューヨークになかったものばかりがあふれていました。……実際には私が撮っていたのは、ニューヨークではなく、自分の子供時代だったのです。それはファンタジーのニューヨークであり、フィクションなのです」と言っているが、メカスの映像は、まさにフィクションとしての映像のこちら側に生ける難民を存在させる。それは、決して映像のなかで対象化されることのない〈主体〉であり、映像を見る者の一人ひとりが自分で生きるしかないところのものである。

「失われてしまったということの痛烈な再確認」と同時に、あるいは以前に「何が失われてしまったのかということの執拗な探究」が必要だと思う。