なんて素晴らしいつながりなんだ

heiminさんがとても素敵なエントリーを書いていた。

どこがどう「素敵」だと思ったかというと、誰しもうすうす感じている日々のくり返しのつまらなさ、マンネリ感、スランプ感、閉塞感、等々から出発して、普通ならそこから、弱音を吐いたり、やけっぱちになったり、自虐的になったり、他人や動物や物に八つ当たりしかねないところで、そうではない方向を何気なく示して、今まで見たこともない風景が目の前に広がる体験を「こうしてみたら、どうかな」と実際に手本を見せてくれるところである。そんな風に語り、写真を撮ることができるのは、heiminさん自身、日々のくり返しって、生活の舞台でしかなくて、そこでどんな事が起こり、どう展開するかは毎日ものすごく違うということに気づいたからだと思う。日々のくり返しは決して機械的な反復なんかじゃなくて、めくるめく変化の舞台であると。そして私はこうも感じた。heiminさんはおそらく世の中の機械的な反復を強いるものやそこに陥りそうな自分自身とずっと闘ってきたのだと。現に、heiminさんは自分を振り返って優しくこう書いている。

日々のくりかえしってのを否定しちゃったら、もうそこからは何もうまれてこないんじゃないか、とか、そんな事をぼんやりと考えだしたのはもう随分むかしからなんだけど、でもま、痛々しいようだけど、何もかも全部捨て去りたいとか何もかも全部否定したいとか、そんな風に思う気持ちってのもなんかすごくよくわかる。わかる、というか、わかる気がする。いや、まさに自分がそんなののくりかえしだったというか。

ところで、heiminさんの「プロフィール」には「岩田宏/のぞみをすてろ」が引用されている。ちょうど今読んでいるタデウシュ・カントールの『死の演劇』(PARCO出版、1983年、asin:4891940786)の付録エッセイのひとつが、同一人物かたまたま同姓同名なのか未詳だが、岩田宏氏の「カントールの背景」だったので、「なんて素晴らしいつながりなんだ」と思った。


「一般的に言って、芝居や舞踏や音楽などと私たちとの接触はただの一度で終わり、あとは私たちの思考のなかでの消化や吸収が、さもなければ不消化や嘔吐が始まる。その際、消化を助けたり、不消化を解消させたりするものの1つは、ほかならぬ本------言葉であって……」8頁


「……強制と苦痛と屈辱を肌身に感じるところから出発して、『未熟』としての世界を指し示している……これは『成熟』や『完成』や『全体』としての世界に対する強力なアンチテーゼである。」9頁

というのは、そのエッセイの中で岩田宏氏は、今、ここで生きる自分の人生をつまらないと思わせるような成熟や成功の「のぞみ」は捨てて、今、ここで生きている自分の人生の未熟さをこそ大切にして、そこから生まれようとして待っているはずの沢山のことに心を向けようじゃないか、と語っているような気がしたからである。