いい歳になってから、初めて日本を離れ、異国の見知らぬ土地で一年間一人暮らしをした。右も左も分からぬ状態から生活を一から立ち上げなければならなかった。それはそれは大変の連続でこのまま野たれ死ぬのかと何度も思ったが、超面白い体験でもあった。一年滞在となると観光旅行とは違って、長期滞在の扱いになり、日本で言えば住民票に相当する社会保障番号というのを取得しなければならなかった。その申請でドジを踏んだ時のことが忘れられない。なぜかちょくちょく思い出す。今日も思い出して、眠れなくなった。以下は当時日本の知人に配信していた「カリフォルニア通信」と名付けた非常識に長いメールのごく一部、抜粋である。送られた方も迷惑千万な長さのメールだったに違いない…。
2004年4月17日
こちらに着いて二週間が経ち、サンフランシスコ国際空港に独り降り立ってからの二日間に受けた衝撃による傷がようやく癒えつつあるのを感じています。特に、二日目に社会保障番号の申請のために電車に乗って出かけた、サニーヴェイルという見知らぬ町で、道に迷い、歩き続け、足を痛めてもう歩けそうもなくなったときには、これはかなりヤバい状況だぞと焦ったのでした。あー、まだ二日目だというのに、俺はこんなところで行き倒れるのか、日本を発つ日に立ち寄った浅草寺でひいたおみくじが「凶」と出て、アメリカに着いて初日に見た彫像がロダンの「地獄の門」だったことが暗示していたのは、こんな運命のことだったのかなんて思ったり、アリスが地下世界で翻弄される様を色々分析して本を書いた自分が、その分析されたアリスその人となってここで途方に暮れている、これは何かの罰に違いない、などと思ったりしたのでした。結局は、中国人のおばあさんや、ターゲットという名のデパートの若い中国人男性の店員や、警察署のこれまた中国人の女性警官、図書館に案内して聞いてやるからと先導してくれたアラブ系のおじさん、図書館の初老の黒人女性の司書の方々の身に余る親切のお陰で、やっと目的の社会保障局オフィスにたどり着き、申請することができたのですが。ところが、後になって、その申請が時期尚早であったことが判明し、再訪するはめになるのです。
2004年5月2日
4月28日(水曜日)、やっと二度目の社会保証番号カードの申請を終えました。16日には結局行き損ねて、今日になったのです。社会保障局から「申請拒否通知」が届いてから、相談にいった大学のベクテル国際センター、海外からの留学生や訪問研究者たちの身分を管理したりその生活を色々とサポートするところです、そこでまだ若い美しいカイリーン譲から、アメリカ到着日から2週間、あなたの場合は15日以降でなきゃ、身分登録の手続きも済んでいないから、社会保証局もあなたの身分を確認できなかったのよ、と言われ、要するに「早すぎた」僕は、慌てる必要はないと心を決め、しかも何時間待たされるか分からない申請手続きですから、午後からのデブリン教授のミーティングに間に合わないかもしれないとも思い、16日当日になってからSunnyvale行きを諦めたのでした。
そして28日、あの地獄の思い出しかないサニーヴェイルへ、電車にバイクごと乗って向かったのです。その日の朝10時くらいにバイクでパロアルト駅に向かう途中の交差点で信号待ちをしていたら、反対側で同じようにバイクにまたがって信号待ちしている男性がこちらを見ているではありませんか。あれ、誰だろう?どこかで見た事あるなあ。え、まさかファンベンタムか?と思って目を凝らしているうちに信号が青になりお互いに動き出し、近づいたらやっぱりその人で、僕はすれ違いざまに、教授?と声を掛けました。するとモーニン!と返事が返ってきました。僕はてっきりボルボなんかで通勤しているのかと想像していましたが、僕と同じバイク通勤だったので、とても嬉しくなり、それにこのだだっ広いキャンパスで出会うのは奇跡に近いとも感じて、これは幸運の女神が微笑んでいるのかもしれないと思った矢先に、やっぱり僕はドジを踏んでしまいました。
僕が利用しているカルトレインCalTrainと呼ばれるバイクや車いすごと乗れる電車は、チケットを自販機で購入するんですが、乗りたい便の時間が迫っていたこともあって、ちょっとあわてて自販機のボタン操作をしたら、なんと切符が三枚も出て来たではありませんか。1ドル75セントで済むところが、5ドル25セントも払ってしまった。うわーっ、嫌な予感、と思いながらも、仕方ない、時間もないし、余分な2枚は誰かにあげよう、と決めた瞬間に、黒人のおじいさんが近づいて来て、バス代をめぐんでくれないか、と声を掛けて来たのです。お金持ってないよ、と答えると何やら聞き取れないことをしきりにしゃべっている。僕は言わなきゃいいのに、これ間違って買っちゃったけど、どうしたらいい?と彼に聞いてしまったんです。すると、駅の中に入って、清算してもらえばいい、と親切にアドヴァイスしてくれたんですが、もう電車の接近を知らせる踏切の警告音が聞こえてきたんです。とっさにこれ欲しい?となぜか聞いてしまった僕に、ニコッと笑った彼は、イエス、と答えたので、あげてしまいました。
しかもドジはそれだけではありませんでした。踏切の音は反対車線のサンフランシスコ方面行きの電車の接近を知らせるものだったのです。僕が向かおうとしているサニーヴェイルはサンノゼ方面行き。もしかして、時刻表を見間違ったか、と、もう何回経験したことか、一瞬修羅が走りました。で、確認すると、案の定、僕はサンフランシスコ方面行きの時刻を見ていたのでした。サンノゼ方面行きは2分前にすでに出たあとだったのです。次まで30分待たなければなりませんでした。僕はFreeと書かれた新聞ボックスからパロアルトデイリーを取り出して、自転車をベンチ脇の柱に立てかけて、ベンチに腰掛け、丁寧に目を通しました。目に留まったのは映画欄で、ダウンタウンのアクエリアスという独立系のフィルムを上映する映画館で、「さらば、レーニン」がまだかかっていました。というのは、こちらに着いた日に研究所で会ったばかりの事務職員のミシェルと事務的な手続きを済ませた後、ところで、という感じで映画の話題になったとき、彼女が面白い映画、ドイツの映画やってるから、今晩見に行くの、と言って教えてくれた映画でした。あれからもう3週間以上経っていたので、もう終わっただろうと諦めていた僕はまだやってるのか、これは何かのサインかもしれないと感じて、今週中に観に行こうと思ったのでした。
僕はバイクを持ってサニーヴェイル駅に降り立ち、駅前から街を見渡しました。あの日と同じように強い日差しのなかで乾ききった街に見えました。そうでした、僕がこちらに着いてから3日くらいは日中は快晴でかなり日射しが強く、唇が乾ききって、そのうち表面の皮がぼろぼろ剥けてきたことがあったのを思い出しました。慌てて、ドラッグストアーで日射し防止のリップスティック、カラフルなパッケージのが何種類もあった、を買って、外出前に塗るようにしたら、いつの間にか、塗らなくても平気になったのでした。朧げな記憶を頼りにバイクで社会保障局を探しました。意外にも体が覚えていてくれて、一度も迷わず、5分くらいでそのオフィスに到着しました。三角屋根の大きめの民家のような建物で、看板がなければ、初めての人はきっと見過ごすよな、と思いながら、僕は2階にある申請室に上がりました。
部屋の外にはポリスのような制服を身につけた体格のよい、若い黒人の係の男が待ち構えています。SSNの申請をしたい、というと、面前のデスクに平積みされた書類を指差して、これを持って、奥のデスクで記入して、5番窓口に提出してください、と言われました。窓口が5番までしかない、こじんまりとしたスペースです、他の窓口の前のベンチには4、5人ずつくらい、メキシコ人、インディアンとおぼしき車いすのおばあちゃんとか、貧しい身なりの人たちばかりが順番を待っている。5番窓口には誰も並んでいない。僕は申請用紙に記入しながら、人種選択欄に、アジア、アラブ、ヒスパニック、ホワイト、ブラック、とかあるのに、ちょっとびっくりしながら、2度目ということもあり、すぐ記入を終え、窓口の向こうで下を向いているきつい表情の女性担当者にハローと声をかけて手渡しました。
まったく表情を変えない、どちらかというと怒っているように見える表情の女性は、僕の印象では、スーパーのレジ係なんかでもヒスパニック系の女性、黒人女性に多い。男たちは愛想のいい奴が多い、そんな印象を持っています。スーツがはちきれんばかりの褐色の豊満な体の彼女は動きにくそうにしながら、端末にばちばち情報を入力しながら、パスポートを、とか、以前に申請したことある?とか、前にみたことあるわよ、と言ってきます。僕が、4月2日に申請したけど、拒否通知が送られてきた。申請時期が早すぎたようだと答えても、ふーん、と言った感じでまともにはレスポンスしてくれず、大丈夫かな、と思いながら、彼女の挙動を観察していると、2枚印刷した紙を僕の目の前に突き出して、先ずこっちにサインして、と言われ僕がサインすると、じゃ、ここに書いてある住所は正しいわね?イエス。2週間でカードは届きます。サンキュー。やった、終わったと僕は思ったのでした。
ルンルンして社会保障局の建物を後にした僕は、かねてから行きたいと思っていたターゲットというデパートに向かいました。駅へ向かう途中にあるんです。日本のダイエーとかイトーヨーカドーみたいな感じ。大学敷地内の高級ショッピングセンターには、あの歴史の教科書にも登場するような老舗のメイシー百貨店とそれと肩をならべる雰囲気のデパートしかなく、置いてある商品もブランド品中心で、セール品でも僕には手が届かない印象でした。そこで、もっと庶民向けの百貨店があるはずだと思って探して見つけたのがターゲットでした。しかし、パロアルトにはない。サニーヴェイルにはあることを前回僕は身を以て体験して知っていたので、次回は是非覗いてみようと思っていたのです。
本当にちょうどダイエーやポスフールみたいな雰囲気でした。2階建て。1階は家庭用品と女性向け用品中心、2階は男性向け用品とアウトドア用品中心です。そういえば、食料品売り場を見ませんでした。僕は先ず2階から攻めて、1枚くらいはカリフォルニアらしいシャツを買おうと思い、迷った挙げ句、薄いブルーとホワイトの花柄のアロハシャツと、サンダルを買いました。ともに10ドル前後です。レジで清算しているとき、レジ係のアンジェラというヒスパニックの女の子が「きれいな色ね」と意外な言葉を掛けてくれて、サンキューと答えて僕はとてもいい気分になったのでした。1階では、色々さがしたけど安くて気に入ったのがなかなかなかったベッドカバーとピロケース19ドル、それに文房具コーナーでペン立てとクリップ5ドル。買い物を終えた僕は帰りの電車の時刻を調べて、アバウトに見計らってから、どこかでランチしようと思いました。
実は首からぶら下げているポシェットに、5センチ×10センチくらいに折り畳んだカルトレイン時刻表が入れてあるんです。そしてそのポシェットは大学のブックストアー前の出店で見るからにインディオのおっちゃんから6ドルで買った、ペルーかどこかの独特の刺繍がほどこされた、見方によってはかなり怪しく見える代物です。でもとても気に入っていて、ゲバラのTシャツよりも、何かお守りのような気がしていて、もう2週間になるかな、外出する時はそれを必ず身につけています。それを目に留めて、いいバッグ持ってるな、と声を掛けてくれたのは黒人のおっちゃんで、白人の人たちは、一瞬ポシェットと僕の顔を見比べては複雑な表情を見せる、そんな反応を見るのも楽しいということもあります。
肝心のランチは、いろいろと迷った挙げ句、しょっちゅう迷ってばかりですが、中華にしました。しかし中華といっても、日本の中華料理店からはほど遠いイメージです。たまたま中国人一家が始めた食堂、店内は日本の夏の海水浴場の食堂にそっくりな粗末な作りでした。でも僕は汁物が食べたくて入ったのでした。客も中国人ばかり。入って奥の正面カウンターで注文して清算して料理を受け取るシステムです。僕の前に並んでいた若いカップルは最初は日本人かな、と思いましたが、注文しはじめると中国語でした。僕の番になって、僕が英語で注文するとその二人はぎょっとした目つきで僕をじろじろ見始めました。なんで中国人じゃない奴がここにいるんだという素振りで。その店は完全に中国人御用達の食堂だったようです。言葉もほとんど中国語しか通じない、というか皆英語は話せても、そこでは中国語しか使わないのかもしれません。
そんなことは知らずに入店した僕でしたが、まずメニューが読めない。漢字なんだから想像つくだろうと高をくくって入ったのですが、漢字は漢字だけど、とにかく読めない。他の客たちが食べている料理を見渡しても汁物はない。今から思うと、スープ・ヌードルとか英語で言えば通じたのでしょうが。困ったなと思ったら、メニューの一番下に英語でポークチャップベントウと書いてあるではありませんか。肉は避けたいなと思っていたのですが、ここは背に腹はかえられないと覚悟して、それを英語で注文しました。注文したときに、ここで食べるか外に持ち出すか聞かれて、ここで、と確かに答えたつもりが、奥の調理場から出て来た優しそうなおばさんは僕に目配せして、発砲スチロールのボックスを袋に入れて、忘れる所だったという風に後から箸を一膳袋に入れて、僕を手招きします。あれ、ここで食べるって言ったはずなんだけどなあ。仕方ない、せっかく袋にまで入れてくれたし、どこかに持っていって食べよう、と思い、シェーシェーと言って店を出たのです。
しかし僕はバイクでした。移動するのは面倒だなと思い、ふと横を見ると白い薄汚れたプラスティックのテーブル1卓と椅子が2脚は重ねて、1脚は座っていいよという、微妙な感じで置いてありました。ここで食べちゃえ、と僕はリュックを下ろし、期待に胸を膨らませて袋の中のボックスを開けました。うぉー、でかい。なんだこの肉の大きさは。だいたい20センチ四方のボックスの全面を厚さ1センチ以上はある豚肉の半ば唐揚げ状態のものが波打って覆っている。この量で5ドルは安いけど、食べきれる量じゃない。しかも固い筋が何本も走っていて箸で千切れない。僕は端っこから少しずつ齧りながら、下に隠れたご飯をほじくるようにして、半分くらい食べたのでした。味付けは経験した事のないものでした。風変わりな味噌がベースなんじゃないかと想像します。最初はちょっと舌が抵抗していましたが、かなり空腹だったこともあって、そのうち悪くないと感じだしたのでした。
その日は快晴ではあったのですが、風が強くしかも少々冷たい。体が冷えてきたなと感じた僕はリュックの底に念のために用意してきたTシャツを取り出して、そのとき一枚着ていた長袖のシャツを、一瞬迷いましたが、往来の面前で脱いで裸になって、急いで着て、その上から長袖のシャツを改めて羽織りました。すっかり節約精神の身に付いた僕は、残った弁当を捨てたりは決してしません。ちゃんと持って帰って、多少味付けを変えて調理しなおして、一食分浮かすんです。その晩もまずご飯と肉をきれいに選り分けて、それぞれを調理しなおして食べました。肉の方には冷蔵庫に残っていたジャガイモ、人参、タマネギを加えて和風の味付けに調理しなおしました。ご飯の方は軽く塩胡椒だけまぶして炒めました。そして僕は自炊では必ず大量のサラダ、日本でいう野菜サラダを摂るように心がけています。こちらでは僕みたいな単身者にも便利な各種野菜の細切れミックスが何種類かの組み合わせパターンで売っていて、僕はそれを絶やさないように買っています。スーパーの野菜売り場では、一人暮らしなのかな、と感じさせるおじさんやおじいさんがよく買っているのを見かけます。
ちょっと侘しいランチを終えた僕は駅に向かいました。今度はサンフランシスコ方面行きに乗らなければなりません。ちょうど電車が入ってきたのですが、ホームは線路をはさんで反対側です。踏切の遮断機は降り、警告音が鳴り続けています。目の前に乗りたい電車があるのに、乗れなかった僕は次の電車まで30分ホームのベンチで待つはめになりました。色んなことが思い出されたり、これからの事を色々考えたりしているうちに、30分は過ぎていきました。ホームの石畳を見つめながら、ひとつ思いついたことがありました。手紙やEメールは「体を伴わない魂(の移動)そのもの」だとすれば、旅は「体と魂ごとの移動であり、コミュニケーション」なのだな、ということでした。インターネットの利便性にすっかり頼り切っている僕は、それでもどこかにそれに抵抗しようとしている自分がいることにも気づいていて、生身のコミュニケーションや旅への押さえがたい渇望を否定することができません。(「カリフォルニア通信8」より)