タフテのパワーポイント批判

英語圏タイポグラフィと情報デザインとプレゼンテーションの領域で聖書のごとく参照される著作を何冊も出しているタフテ(Edward R. Tufte, born 1942)についてはすでに二度書いた。

タフテの公式サイトはこちら。

そのタフテがプレゼンテーションの代名詞ともいうべきマイクロソフトのパワーポイントを徹底的に批判した著作The Cognitive Style of Power Point: Pitching Out Corrupt Within, Second Edition(Graphics Press, 2006,asin:0961392150)が届き、目を通していた。目からウロコが何枚も落ちた。著作といっても、わずか31頁のホチキス留めの冊子形態である。しかし、「情報」の量は多く、質は非常に高い。


表紙部分。

裏表紙部分。ニューヨーク・タイムズの「データのレオナルド・ダ・ヴィンチ」という記事の見出しが見える。

昔から私は「プレゼンテーション」にも「パワーポイント」にも違和感を持っていた。現在でも基本的に「紙+板書」主義である。タフテの周到なパワーポイント批判を読んで、私の違和感は上の表紙写真(「1956年4月4日ブダペストスターリン広場における軍隊パレード」)に如実に見られるようなパワーポイントというソフトウェアのカルト・プロパガンダ的限界、そこに参加している個人が思考停止を余儀なくされる全体主義的な管理主義的な儀式の限界であることを知った。

タフテによれば、それはパワーポイントが体現する「認知様式cognitive style」そのものであり、私の言葉では構造的限界である。パワーポイントを使うことが自然なこととして通用している場面で発表者も聴衆も巻き込まれざるをえない構造的限界。だから、商品の売り込みなどの共犯的パフォーマンスには役立つツールかもしれないが、何かを明らかにするための「情報information」、「証拠evidence」、「思考thought」が問題になるプレゼンテーションにはむしろ阻害的に作用するツールである、と。私の違和感の原因は、プレゼンテーション一般の限界ではなく、パワーポイントを使った標準的なプレゼンテーションの限界にあったのだった。

タフテはあくまでプレゼンテーションの改善策、真に「証拠指向のプレゼンテーションevidence-oriented presentation」の方法を提案することを目的としている。そのプレゼンテーション改善策に関して、下手にパワーポイントを使うくらいなら、A3サイズの紙を二つ折りにした計4頁の紙の資料を使う方が情報の量と質の観点からもよほど効果的なプレゼンテーションが期待できるはずだとタフテは断言する(p.30)。そしてワープロを超えるツールが誕生することを期待していると述べている(それって、美崎薫さんが開発しているツールかもね。)

ちなみに、タフテはパワーポイント批判の核心をジョージ・オーウェルの次の言葉に託している。

The English language becomes ugly and inaccurate because our thoughts are foolish, but the slovenliness of our language makes it easier for us to have foolish thoughts.
("Politics and the English Language")

そして”The English language"を"PowerPoint"に置き換えてさえいる。"the slovenliness"は「無精」を意味する。すなわち、「なまける」ということだ。自分の頭でちゃんと考えることを「なまける」場所にパワーポイント的プレゼンテーションがはびこるというわけだ。

それにしても、タフテが啓蒙活動を続ける米国ではパワーポイントの情報デザイン的、タイポグラフィ的可能性を開拓して非標準的に証拠指向で使いこなす人が増えているんだろうな。今度SlideShareを調べてみよう。