エドワード・タフテ・アンソロジー


The Cognitive Style of Power Point: Pitching Out Corrupt Within, Second Edition(Graphics Press, 2006,asin:0961392150)裏表紙部分。ニューヨーク・タイムズの「データのレオナルド・ダ・ヴィンチ」という記事の見出しが見える。

タフテの公式サイト


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いままで、タフテに言及したエントリからの抜粋。

アメリカでは組版には『シカゴ・マニュアル』を、図表やグラフ表現には通称『タフテ』(Edward Tufte, The Visual Display of Quantitative Information, Graphics Press, 1983)を参照するのが通例となっている

非常に複雑な事象の観察結果としての主に数量的なデータをチャートやダイアグラムなどで「図解」する場合の明快な方法論に基づいて、どんな図表やグラフがどこがどうして優れているか否かを的確に判断することができるルール、タフテは「原理(principles)」と呼ぶが、がシンプルに書かれている。「データ・インク(Data-Ink)」という概念の提示(本書93頁)……まず「インク」とは文字通り印刷用のインクの「跡」のことで、印刷物上の図表やグラフはそのようなインクの跡(数値や点や線や色面など)の集まりであると見ることができる。図表やグラフの構成要素は突き詰めればインクの「点」とみなすことができるので、ディスプレー上では「ドット」に置き換えてそのまま通用する概念を表す。「データ・インク」とは、データを理解する上で必要欠くべからざるインクの「点」を意味する。通常の図表やグラフはデータ理解に直接必要のない余分なインクを含んでいる。そこで、図表やグラフがデータの意味を明確に過不足なく表現しているかどうかの重要な指標として、全インク量に対するデータ・インク量の比率である「データ・インク比(Data-Ink ratio)」を考えることができる、というわけである。要するに、普段よく目にする図表やグラフには余分なインクが、場合によってはデータの適切な理解を妨げるように、大量に使われているという事実にハッと気づかされた

デザインはページレイアウトの約束事としての余白までをも満たすものである、と。なぜなら、デザインは中心に向かって凝集するものではなく、紙面全体を超えて放射するものであるから。

タフテがプレゼンテーションの代名詞ともいうべきマイクロソフトのパワーポイントを徹底的に批判した著作The Cognitive Style of Power Point: Pitching Out Corrupt Within, Second Edition(Graphics Press, 2006,asin:0961392150)……タフテの周到なパワーポイント批判を読んで、私の違和感は上の表紙写真(「1956年4月4日ブダペストスターリン広場における軍隊パレード」)に如実に見られるようなパワーポイントというソフトウェアのカルト・プロパガンダ的限界、そこに参加している個人が思考停止を余儀なくされる全体主義的な管理主義的な儀式の限界であることを知った。タフテによれば、それはパワーポイントが体現する「認知様式cognitive style」そのものであり、私の言葉では構造的限界である。パワーポイントを使うことが自然なこととして通用している場面で発表者も聴衆も巻き込まれざるをえない構造的限界。だから、商品の売り込みなどの共犯的パフォーマンスには役立つツールかもしれないが、何かを明らかにするための「情報information」、「証拠evidence」、「思考thought」が問題になるプレゼンテーションにはむしろ阻害的に作用するツールである、と。私の違和感の原因は、プレゼンテーション一般の限界ではなく、パワーポイントを使った標準的なプレゼンテーションの限界にあったのだった。タフテはあくまでプレゼンテーションの改善策、真に「証拠指向のプレゼンテーションevidence-oriented presentation」の方法を提案することを目的としている。そのプレゼンテーション改善策に関して、下手にパワーポイントを使うくらいなら、A3サイズの紙を二つ折りにした計4頁の紙の資料を使う方が情報の量と質の観点からもよほど効果的なプレゼンテーションが期待できるはずだとタフテは断言する(p.30)。そしてワープロを超えるツールが誕生することを期待していると述べている。……自分の頭でちゃんと考えることを「なまける」場所にパワーポイント的プレゼンテーションがはびこる

滞米中にパワーポイントによるプレゼンテーションを「芸術」の域にまで高めた人物がいて、サンフランシスコで彼の講演があるという新聞記事を読んで、興味をそそられたことがあった。そんな使い方なら見倣いたいなあとその時思った。しかしそのことをすっかり忘れていた。最近、その人物が実はタフテだったことを知ったのだった。

「データのレオナルド・ダ・ヴィンチ」と異名をとるエドワード・タフテ(Edward R. Tufte, born 1942)が90年代に出した上の二冊もワクワクするほど面白い。私たちの複雑な経験(データ)を平面上にどうやって表現(視覚化)すればよいかを非常に明快に説得力をもって解説していることに改めて感動すると同時に、古今東西の事例にまじって日本の事例が頻繁に取りあげられていることに目を見張り、ある種の絵本のように平面を飛び出す立体的な工夫にも驚いた。

第4回の講義の準備をしながら、情報の伝わりやすさについてつらつら考えていた。字数の多いレジュメやタフテがこき下ろした情報密度、情報解像度の低いパワーポイント資料をあでもない、こうでもない、と結構楽しみながら、作っては、やっぱりダメだ、こりゃ、と捨てる。気がついたら、紙にペンを走らせていた。パッと思いついた概念図のひな形みたいな図をいくつも描いていた。そのままでは、文字も崩れているから、やや見難いかもしれないが、少なくとも私に作れるパワーポイント資料よりは、圧倒的に見やすいというか、伝わるものが確実にあるという気が確かにするから不思議だ。手書きの「味」? おそらく、そこには情報伝達の認知条件が関わっているはずだ。紙であるとか、手書きであることに含まれる背景、地になる情報量と図になる情報量の総量がきっと、同じ内容の資料をパワーポイントで作った場合の情報量よりも数倍から数十倍は多いのだろうと推測する。いやいや、そうかもしれないが、それよりも重要なことは、私なり、学生たちなりが、積極的にそこに情報を読み込もうとする、自分の頭のなかから情報を呼び出そうとする働きを促す力が、手書きの下手くそな図にはあるような気がしてきた。

吉田初三郎のものと思しき鳥瞰図を、あのエドワード・タフテ(Edward R. Tufte, born 1942)が『Envisioning Information』(1990)第1章の冒頭で取りあげていることを以前記した。

グーグルが株式公開した2004年の夏に、私はそのお膝元で、グーグルなんかどこ吹く風のような生活を送っていた。金城さんのエントリーを読む直前に、偶然にも、その頃毎日しこしこ当地で書いていたメモが出てきて、その情報の、何て言えばいいのだろう、質的情報量? そうだ、タフテ流に言えば、少なくとも私にとってはとんでもなく情報解像度の高い、言い換えれば、想起の引き金に溢れ返った一枚のレターサイズの紙を懐かしく眺めていたのだった。

『デザインのデザイン』でさえ、デザイン、情報デザインを語る言葉(デザイン思想)は、デザインの実践に追いついていない、思想と実践が乖離しているという印象が拭えません。「情報の質」といわれる「質」がもっと解き明かされる必要があるでしょう。一つのヒントは、以前別の文脈で何度も引き合いに出した、タフテ(Edward R. Tufte, born 1942)の「情報の解像度」という捉え方にあるのではないかと睨んでいます。