魔法の杖の呪文


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素白先生の随筆が手頃な値段の文庫と新書で読めるようになった。文庫の方は、歌人来嶋靖生氏が『岩本素白全集』全三巻(1974年?1975年、春秋社)を底本に撰集し、「解説」も書いた『岩本素白随筆集 東海道品川宿』(ウェッジ文庫、2007年)。そして新書の方は『山居俗情』(1938年、砂子屋書房刊)および『素白集』(1947年、東京出版)を底本として編まれた『素白随筆集』(平凡社ライブラリー、2008年)である。後者では以前紹介した『月光に書を読む』の著者鶴ヶ谷真一氏が解説を書いている。

この二冊に目を通していて、私がなぜ素白先生の随筆に惹かれるのか、その理由の一端が分かった気がした。「魔法の杖」の故だった。

 素白の心には、自らの年齢も考え、生まれ育った品川のことを納得の行く文章にまとめたいという気持ちが次第に強まってきたのであろう。また空襲による被災の後は文献や資料による研究とは縁を切り、素手で果たせる文章に打ち込もうという決意もあったと思われる。

 信州に疎開中、雑木林で見出した頃合いの枝を杖に仕込み、これに「狂多愛出游」という高青邱の一句を刻み、時あればその杖を曵いて好みのままに出歩いたという。
(『岩本素白随筆集 東海道品川宿』、来嶋靖生氏による「解説」230頁)

素白先生は魔法の杖を持っていた。それは、積まれてあった粗朶(そだ)のなかから手頃な一本を引き抜いて、先生みずからが手作りした杖だった。読書や執筆に倦むと、先生はその杖を手にして、ふらりと散歩にでかけるのであった。ときどきの心のおもむくままに行くそんな散歩は、先生にとって特別に大切なひとときであった。日々の営みのうちにありながら、平生とはほんの少し異なる時間の流れに、身も心もうだねる散歩……。ある秋晴れの一日、興に乗じた先生は、画のように美しい詩を作った明の詩人、高青邸の「狂多くして出游を愛す」という一句を杖に刻んでみた。「狂多くして」とは「気まぐれで」というほどの意味らしい。この「狂多愛出游」という、ひそやかな呪文のような言葉を刻まれて、粗末な粗朶の杖は、世に一本しかない魔法の杖になった。
(『素白随筆集』、鶴ヶ谷真一氏による「解説」343頁)

自分が生まれ育った町、あるいは現在住む町のことを納得の行くまで知ること。しかし、そのためには「狂多愛出游」に類した呪文を刻んだ「魔法の杖」が必要であること。私の場合は、それは、さしずめ「風太郎」である。風太郎の額には「風狂多愛出游」と刺青してある。冗談。