ゴーマンな僕。人はこうしてチャンスを逃す。

以下はあくまでフィクションであり、実在する人物とは一切関係ありません。

傲慢には二種あると思う。清々(すがすが)しい傲慢と後味の悪い傲慢。透徹した傲慢と曇り濁った傲慢。独立した傲慢と他人や組織に依存した傲慢。前者をゴーマン、後者を傲慢と書くことにしよう。

ゴーマンな僕は自分に必要な情報が何かが分かっている。もちろん自分に必要のない情報は何かも分かっている。だから迷いはないし、この世に謎など存在しないと思っている。迷いや謎に戯れている暇はない。僕以上に傲慢そうなGさんは自分に必要な情報が何か分かっていないようだった。しかもGさんは僕に必要な情報を持っているわけではない。だから付き合う必要もないのだけれど、そこはボランティア精神。Gさんが気づきさえすれば、Gさんはいい意味で変われるかもしれないし、それが周囲をもいい意味で変えることになるかもしれない。そんな淡い期待が僕を動かすのだ。

だけどGさんはそれに気づかない。Gさんは目の前にいる僕が彼の必要とする情報をもっていることに気づかない。あれだけ見せても気づけない。気づきたくないとしか思えない。色んなイドラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5)が彼の目を何重にも曇らせている。そうしてGさんはチャンスを逃す。僕は肩をすぼめ、ため息をつく。Gさんが気づけない、変われないことで、僕まで迷惑を被ることは是非とも避けたい。だから僕は悪影響の及ぶ範囲からできるかぎり逃走する。逃げる。逃げられるところまで逃げる。罪悪感など微塵もない。罪なのはGさんの方だからだ。

傲慢な人は自分に必要のない情報に振り回されて、迷いの中、謎の前で時間と労力を無駄にし、つまりは人生を無駄にし、関係者にも迷惑をかける、つまり関係者の人生をも無駄にする。そういう傲慢な人になってはいけない。一見同じように見えてまるきり違うゴーマンな人を目指すべきだ。