「すべての思い出がクシャクシャになりますように。」

どんなにそれが感情の直接的な表出に見えようとも、言葉になった瞬間にそれは表現という公共の空間にジャンプしている。そのことにナイーブであることは言葉そのものに対しても、そして公開する/されるということに対しても幼稚であると言わざるを得ないだろう。少なくともその狭間でこそ自分の言葉の力、文体を鍛えるという自覚を持たないと。

その点でいつも唸らされるのは『平民新聞』のしなやかな文体である。何が書かれているかをおろそかにはできないのはもちろんだが、もっと重要なことは、どう書かれているかということだと思う。日記、ブログとて単純な独りよがりな表現では恥ずかしい、イケてないのだ。編集の限りを尽くした表現でなければ。彼/彼女が何をしたかという事実よりも、彼/彼女が何をしたはずかという真実をどう掘り下げて書くか。どう読まれるように書くか。それは底なしの「ハラの底」の探り合いみたいなものかもしれない。

書き手と「アタシ」の間で言葉が戯れるように賭け続けられる。その計り知れない距離感、底なし感がぞくぞくするような美しい真実の表現を産み落とす。

すべての思い出がクシャクシャになりますように。

日常のほんの些細な、取るに足らないようなことでさえ、いや、そうであればこそ、だって、人生はそんなことの積み重なりなんだから、危険を承知で鍛えられた言葉の力によってでなければ、まともに読めるような文章にはならない。気をつけようね。

ああ、また批評家もどきのことを書かされてしまった。