花咲か爺の新たな課題

今朝の散歩でサフラン公園が視界に入った時、いつもとどこか違う雰囲気を感じた。公園の方から聴こえてくる声の響きがいつもと違った。人間の耳はすごいものだ。毎朝慣れ親しんだサウンドスケープにほんの僅かでも変化があれば、それを敏感に察知して何らかの異変を予測する。昨日書いたサフラン・クラブにしては数は多いし、やけに賑やかな印象があった。信号の手前から公園入口の二本のシナノキ越しに見えたのは、公園の清掃のために集まった町内の複数の班の方々だった。私が属する班でも隣接する班でもないようだった。見知らぬ男たちばかりだった。私よりも若く見える人もいた。十数人。清掃を終えて東屋で談笑しているところだった。いつものように横断歩道を渡りシナノキの下をくぐり抜けて、ああ実がなっている、水飲み場に直行する。いつもなら東屋の下ではサフラン・クラブの面々の朗らかな集いが見られ、骨盤体操にいそしむクイーンの姿が見られるはずだった。風太郎が水を飲み終わる頃、「清掃部隊」は三々五々解散し始めた。朝書いたように、その後私たちは久しぶりに公園内を歩いた。そしてちょっと驚いた。朝は書かなかったことだが、公園の一番奥まったところにある東屋にサフラン・クラブの面々がいるではないか。まるで、いつもの場所から追い立てられたかのようにひっそりと。風太郎と私に気づいた方が笑顔のサインを送って寄越した。私も笑顔のサインを返した。サフラン公園のほぼ中央には緑の小山があって、公園入口の方からは完全な死角である。ちなみにその小山は冬には幼児たちのソリ滑りの恰好の場所になる。サフラン・クラブの面々はどこか意気消沈しているように見えた。気のせいかもしれない。公園清掃のための集まりとサフラン・クラブの集まりが水と油のように別れてしまっているような印象が気にかかる。引っかかる。町内で一番大きな公園であるサフラン公園は班の持ち回りで定期的に清掃することが決められている。公園清掃は一種のボランティア活動である。サフラン・クラブだって、一種のボランティア活動である。しかし両者の間には非常に深い溝、キャズムが感じられた。せっかく日曜日の朝の公園での集まりが、ノルマと化したお仕事になるようではもったいないし、サフラン・クラブも内向きに閉じてはいけないなどと思いながら、両者の溝を埋めるのは花咲か爺の笑顔しかないなと思ったりしたのであった。