オホーツクのヴィーナス

米村喜男衛著『モヨロ貝塚』(asin:B000J9GCLI)の扉のカラー写真に写っているモヨロ貝塚から出土したセイウチの牙製のクマの彫刻にはその胴体に美しい点線模様がきざまれているという。それはアイヌイヨマンテの儀式を連想させると司馬遼太郎は記し、こう推測している。

 つまりオホーツク人も熊送りの儀式をもっていた。それどころか、アイヌ文化に先行していて影響を与えたのかもしれない。
 なんといってもアイヌ文化は北海道ではあたらしく、オホーツク文化や擦文文化こそその先行文化だったのである。二つの先行文化は、鎌倉以降に成立するアイヌ文化に当然ながら影響をあたえた。文化は過去から未来にイヨマンテされる。
(『オホーツク街道』207頁)


(同215頁)

そして、司馬遼太郎は写真で見た「礼文島のヴィーナス」や「モヨロ貝塚のヴィーナス」と呼ばれる「オホーツク文化の婦人の姿を牙に刻んだ彫像」が脳裏を離れないという。まず礼文島のヴィーナスに関しては古ヨーロッパの地母神ヴィーナスとは異なり(「ヴィレンドルフのヴィーナス Peter Kubelka:365Films by Jonas Mekas」参照。)、シャーマンであろうと想像されているらしいが、司馬は同じシャーマンでもシベリアの少数民族のシャーマン(オバサンが多い)とは異質な「静けさ」に注目し、独自の解釈を試みている。

 すぐれた巫女(シャーマン)は、女性としての出産機能を終える年齢のときに神懸かりになるといわれる。
 また女性であることが始まる十四、五のときも、触れれば光でも出そうなほど鋭敏になり、しばしば神懸かりに入り、予言やら何やらをする。
 この婦人像のポーズは、予言をしているのではないか。
 胸のあたりのかぼそさからみて、十六、七の娘ではないかと思える。もしそうなら、一、二年もすれば瘧が落ちたように憑依能力が消え、ただの人になる。だからこそ盛りの年齢のその姿を骨にきざんで永遠にとどめ、困難なときには守り神にしたのだろうか。
 この像は高さわずか十三・八センチメートルである。でありつつ、自然なエロスを感じさせる。
(同217頁)

司馬はモヨロ貝塚のヴィーナスに関しては「筒袖にワンピースという婦人服」に注目し、「服装史」の観点から中央アジア北アジアに淵源するのではないかと推測している。

 この牙偶(がぐう)が着ているような婦人服は、モンゴルにも固有満洲の民族にも沿海州ツングースにも、また中国の西北のウイグルにも民族服としてのこっている。第一、網走で自分の民族の婦人服をせっせとつくっては収蔵したり、展示したりしている北川アイ子さんのウイルタ(オロッコ)服もそうである。
(同218頁)

こうして「北」としての北海道を見る目はさらに深まり、視野は広がっていく。

なお、モヨロ貝塚全般に関する最新の考古学的知見は米村衛氏著『北辺の海の民・モヨロ貝塚』を参照のこと。

北辺の海の民・モヨロ貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

北辺の海の民・モヨロ貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)