日常と死刑制度

辺見庸「犬と日常と絞首刑」(2009年6月17日朝日新聞)が面白かった。辺見氏によれば、天皇制ともどこかで通底する死刑制度を容認するこの国で暮らすことは、根源的に暴力を容認する前社会的な世間(=「非言語系の感情的な閉域」)に立てこもり、引きこもるようなものであり、「膠のような日常と世間に足場をとられている」生活を送ることにほかならない。

辺見氏も指摘するように、欧州連合(EU)では2002年初夏以降、全加盟国が戦時をふくむすべての状況下での死刑の完全廃止を規定した欧州人権条約・第13条議定書の署名国になっている。EUの死刑廃止宣言の思想は、死刑は最も基本的な人権、すなわち生命にたいする権利を侵害するきわめて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰であり、そもそもそのような暴力によって暴力を断ち切ることはできないということである。

日本においてはしかしながら「死刑廃止は……自己像の解体にひとしいほどむつかしいだろうと私は内心おもっている」と告白する辺見氏は、せめて「死刑にかかわる自己像」を知るためにも、EUが標榜するような理念、死刑の廃絶のことばをみずからの心底に静かにかさねて、しばし黙考してみることを、日本の司法と世間に勧めている。この点で、非暴力によって暴力を断ち切るという社会的メッセージが籠められた映画『グラン・トリノ』を連想する。

小さな黒い犬と暮らす辺見氏のありふれた日常の描写は血の滲んだ切り傷が無数に走るようで非常に印象的である。

 私は一匹の小さな黒い犬と毎日をごく静かにくらしている。私は一日三食を食べ、犬は二食である。ぜいたくはしない。時々ずいぶん気ばったことをいったり書いたりするけれど、世間と悶着をおこさぬようそれなりに気をつかっている。歳のせいか泣かなくなった。犬も無口というのか、あまり吠えない。できればこの日常が大きく変わることのないように願っている。私には脳出血の後遺症で右半身に麻痺がある。犬の排泄物はだから左手で処理している。しんどい。必死である。だいぶ以前の昼下がりにこんなことがあった。テレビに尻をむけ前かがみでふうふういいながら犬のトイレを掃除していたとき、短いニュースが流れ、背中でそれを聴いた。その日の午前中に三人の確定死刑因に刑が執行されたというのだ。
 丸太ん棒でしたたか打ちすえられたような衝撃を背に感じた。ニュースに驚いたのではない。犬の糞をつまんでいた私の体勢と絞首刑の関係にショックを受けたのだ。恥辱か罪の影が胸裡をさっとかすめた。テレビ画面に背をむけたまま犬と眼が合う。たがいにたがいの眼の奥をのぞきこんだ。吠えない犬が突然かん高くひと声吠えた。私が別人のように緊張をはらんだ眼をしていたからだろう。なにがあったというのではない。たったそれだけの話である。夕方にはいつもどおりチェット・ベイカーを聴きながら無添加のドッグフードを計量カップで七十cc分と粉末サプリメントを犬に与えた。日常はそうするうちに屈託をほどき、ゆっくりと凪いでいった。なにがあったというのではない。それだけの話だ。

(中略)

……同居する犬が死んだら私はたぶん、さめざめと泣くであろう。しかし明朝だれかが絞首刑に処されたのを知るにおよんでも、悩乱をつのらせることはあれ、涙を流すまではすまい。私もまた悲しむことのできる悲しみしか悲しんではいないのだ。今日もまた私はふうふういいながら左手で犬のトイレを掃除する。犬と眼が合う。私はなごみ、同時にぞっとする。日常がこれでよいわけがない。そう自答する。

 辺見庸「犬と日常と絞首刑」(2009年6月17日朝日新聞)より