胎児の変身劇に生命記憶をたどる

文字のかたち(字体、書体、書風)、そして文字というかたちの「故郷」を彷徨っていると、かならず、生命のかたち、そして生命というかたちの「原郷」に逢着する。そしてそこでかならず「記憶」の問題にもぶつかる。


三木成夫先生がやってきた。

「胎児の世界」?

うっ、凄い!

それにしても、「かたちの探究」にとって、「胎児の世界」に大きなヒントがあったとは。三木先生にいきなり頭をガツンとやられた気がした。なんだかんだ言って、お前さんは記憶の波頭しか見ていない。その下にある記憶の海の深さにちゃんと向き合え。解剖学、発生学の専門家であり、ゲーテの精神を継ぐ現代では稀有な自然科学者である三木成夫(みきしげお, 1925–1987)は、知る人ぞ知る思想家でもあった。松岡正剛はどこかで、三木先生は、テレビなどで偉そうにしゃべっている某解剖学者とは格が違うとはっきりと書いていた。


三木成夫著『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公文庫、1983年)の「はしがき」はこう始まる。

 過去に向かう「遠いまなざし」というのがある。人間だけに見られる表情であろう。

 何十年ぶりかで母校の校庭に立つ。目に映る一本一草に無数の想いがこもる。「いまのここ」に「かつてのかなた」が二重に映し出されたのであろう。いちいちの記憶が、そこで回想されたのである。

「記憶」と「回想」はよく混同される。思い出すことを前提におぼえこもうとする習性が、いつの間にか身にしみついてしまったからであろう。わたしたちには、しかし、度忘れということがある。その一方で、知らぬ間に覚えていたものが、何かの拍子に、ふっと出てきたりする。

 校庭の一木一草の、その姿かたちが、幼い日を通していつしかこのからだに入り込んだように、記憶とは、本来、回想とは無縁の場でおこなわれるもののようだ。いいかえれば、人間の意識とは次元を異にした、それは「生命」の深層の出来事なのである。アメーバの裾野にまでひろがる生物の山なみを舞台に、悠久の歳月をかけた進化の流れのなかで先祖代々営まれ、子々孫々受け継がれてきた、そのようなものでなければならない。人びとはこれを「生命記憶」とよぶ。
(ii–iii)

そもそもは人類が普遍的に志向してきた「螺旋」というかたちへの興味から、生命に普遍的な「螺旋」ないしは「捩じれ」というかたちに注目しつづけた三木成夫の仕事に出会ったのだった。頭では外部記憶に頼るようになってひさしい人類は膨大な未知の内部記憶、三木成夫のいう「生命記憶」を継承していることは分かっていたが、最近は外部記憶のテクノロジーに関心を奪われていて、やや灯台下暗しになっていたことに気づいた。そして、インターネットとそのような「生命記憶」の関係について考え始めていた。

ふと、中西さんが、河合隼雄の『猫だましい』をヒントにして「機能と意匠」の二分法を乗り越えるデザイン思考を練り上げようとしているエントリー「デザインとは」のことが頭に浮かんだ。