非常に優れた自伝である宮本常一の『民俗学の旅』の最終章は「若い人たち・未来」と題されている。
基本的には、「可能性の限界をためしてみるような生き方」(194頁)、「生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどのことができるのか、それをためして」みるような生き方(203頁)としての「旅」をする若い人たちを推奨するのが趣旨だが、いつもながら、自分の実体験に即した興味深い話が随所に鏤められていて、情報解像度の異常に高い内容になっている。
そんな話のなかに、「高野聖」へとつながる、仕事がらみの回想がある。それは宮本が人生最大の師と仰ぎつづけ、彼にとっては社会的な「防波堤」でもあった渋沢敬三亡き後の己の歩みを振り返るところから始まる。
さて私はいったいこれまで何をしてきたのだろうかと思うことが多い。防波堤を失って波をもろにかぶるようになって何一つ腰のすわった仕事はしていない。
(中略)
渋沢先生の期待し希求したものに対して私個人は決して十分におこたえしてはいないが、先生の残された学問的方法の進展につくすことが私の道だと思って今も歩いている。
しかしその歩き方が大変ヨタヨタしている。私以外の人ならもっと充実し、計画的でもあるだろうと思う。ただ力はなくても一つのことの解明や育成に努力しておれば、後から来る者が気がついて手助けしてくれるだろうと思うようになった。そのことを教えてくれたのは『一遍聖絵』であった。
昭和三十年十二月二十五日に渋沢邸で絵巻物研究の戦後第一回の会合を持った。絵巻物の中から今日の民衆生活につながるものを書きぬいて、字引ならぬ絵引きを作ろうというのが渋沢先生のお考えで、昭和十七年ごろ研究会を作ったが、戦争がはげしくなってきたので中止し、戦後も容易に復活することができなかったが、村田泥牛画伯が模写して下さることになり、三十年に復活した。そして絵巻物の中から模写すべき画材の検討をしていった。
その絵巻物の中に『一遍聖絵』があった。この絵巻には戦前から関心を持っていたが、こまかに見ていったのはこのときがはじめてで、描写の確実なこと、絵そのものもすぐれていること、さらに生涯を放浪にすごし、最後は旅先の兵庫で死んでいったその生きざまにも心を打たれた。衆生(しゅじょう)の極楽往生を願って人びとに念仏をすすめ、その信仰に誰も容易にはいり得るものとして念仏をとなえつつ踊ることをすすめた。身には幣衣(へいい)をまとい、施しをうければ食い、人にも施し、来る者は拒まず、去る者は追わなかった。遊行の途中、暑さや食うものがなくて同行の衆のたおれてゆくものもあったが、それらの供養以外には足をとめることもなかった。全く一所不在であった。『一遍聖人語録』に見えた百利口語はこの人の徹底した人生観が出ている。口にとなふる念仏を 普(あま)ねく衆生に施して これこそ常の栖(すみか)とて
……そうした信念のもとに旅をつづけたのである。そうしてもっとも貧しい者の友として生きた。世に高野聖(こうやひじり)といって放浪を事とした念仏僧の中には一遍を宗祖とする時宗の徒が多かった。こうした聖たちの中には所行のおさまらぬ者が多かったが民衆に念仏をすすめ、念仏を申すための結衆をすすめ、その結衆の力によって現実の生活を守るようにもさせた。村落共同体の発達には念仏衆団の力が大きく働いていたと見られるのである。もとより私にはそうした徹底した生き方はできないが、一遍の生きざまに教えられるところはきわめて大きく、一遍のことばがいつも心にひっかかっていた。
(『民俗学の旅』211頁〜213頁)
以前から瞠目していた戦前の混乱期にすでに日本文化に関する字引ならぬ「絵引き」が作れぬものかと発想した渋沢敬三の慧眼(ビジュアルな情報検索術に関する展望)にワクワクし、そしてその実際の制作過程で宮本が『一遍聖絵』や『一遍聖人語録』に透視した念仏という「声」によるコミュニケーションが命の「旅」を栖(すみか)とするような人間のひとつの理想の生き方に心を打たれる姿にこちらも心を揺すぶられる思いがする。
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